「織りなす詩を綴る日々」by 武居詩織 vol.1 〜物語が始まる予感〜
撮られることが多い中で
自分が撮る写真は思い出を紐解く鍵の様なものだ。
人生が一冊の本だとすると
写真は私にとっては挿絵のようなものなのだと思う。
「X-E3」を手にしてから半年余り。
まだまだ初心者なので周りに教えを請うと、意外と皆とりあえずは好きに撮るのが一番だと言って教えてくれず、未だ手探りで写真を撮っている。
「それでいいんだよ。変に頭で考えず感覚的に撮った方がいい。」と言われたけれども
確かに。それがきっと自分らしい写真になっていくんだと思った。
生きるのはいつだって試行錯誤の繰り返しだ。
写真もそれでいいじゃないか。
夏至に混じる切なさは不思議な色合いの空にとけてゆく
梅雨の名残と夏の訪れを感じる曖昧な季節。
混じり合う昼と夜が全く違った景色を見せてくれる。
見慣れたはずの街並みもなんだか異世界に来てしまったようにすら見えてくる。
小さい頃から空を見上げるのが好きだ。
私が育った町は田舎で高い建物がない。空を見るにはうってつけの環境だった。
マンションの屋上に登って流れてゆく空を見るのが好きだった。四季の変化はもちろん、日々変化する空は面白い以外の何物でもなかった。
東京に住むようになった今も少し狭くなった空をつい見上げてしまう。
一人っ子だからかそうやって自然と周りにあるもので遊ぶ習慣があった。
天井のシミや目を瞑った時の残像、通学路の石ころで遊ぶのすら面白かったし、ソファーは船になったり城になったりしていた。
カメラを手にして一番気づいた変化はそこだ。
気付かぬうちに日常の面白さを見落としていた気がした。
何気ない日常も、カメラと共に過ごすと見えているようで見えていなかったものがたくさんあった。
とても大切な感覚を取り戻したような心地いい気分だ。
何より写真を撮っていると時間を忘れて没頭できる。大人になってからなんだかそういうことが少なくなっていたような気がして、きっともうカメラなしではいられないだろう。
フライパンの中のお湯ですら
よくよく見ると不思議な世界が広がっている。
今までこんなにもじっと見たことがあっただろうか。
徐々に強くなってゆく日差し。
物語が始まる予感が静かに胸を高鳴らせる。
何でもない風景も写真に撮ると
全く別の世界にクロスしていくようだ。
甘美な果実は官能的な曲線を描き
ほのかに染まるように熟して瑞々しく光る。
無残な姿すらもはや美しいような気がしてしまう。
欠けた何かや朽ちた何か
不完全なものの美しさもある。
真の美しさは佇まいなのではないかと思う。
味のある人に内面から滲み出る素敵な佇まいがある様に
物にももちろんそれがある。
心に収まりきらない思いも
ありきたりの日常も
生きてゆく中での”なんとなく、でも自分にとってかけがえのない瞬間”を
少しでも写真として残しておきたい。