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Column 2024.05.29

『校舎裏からはじめた地中海の旅を、人は恋と呼ぶ』 〜ありあ vol.1〜

 

“好きだった人のことを忘れたくて旅に出る”
このことを恥ずかしく思っていた2月のわたしを、3月のわたしはどう思うでしょうか。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/450秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

『上書きノート』

地中海沿岸の国々へひとり旅に出たわたしは、いつも旅で持ち歩く日記帳とは別に、ひとつのノートを携えました。『上書きノート』と呼んだA5サイズのノートには、当時好きだった人と話していた“行きたい場所”が箇条書きで書かれていて、そのひとつひとつには、当時の記憶を上書きするためのスペースが、3行分くらいあって。

よくある話です。好きだった人は世界史や地理が好きで、だからわたしも、世界史や地理を好きになりました。放課後の校舎裏で幾度と話したことは、およそ旅のことばかり。「この国に行ってみたいなあ、行ったら必ず、こことあそこでこの料理を食べてさ」「何それ、食べ物のことばっかじゃん」

世界がおよそ小さな田舎町につまっていた中学生のわたしにとって、好きだった人との“旅”の会話こそが、“旅”そのものだったように思います。そう、好きだった人と校舎裏で会話したおよそ1年半は、人生はじめての旅であり、人によってはこれを、“恋”と呼びます。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F4.0 /1/950秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ACROS +グリーン

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F4.0 /1/3500秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

「ありあ、今度は北アフリカに行くんだって?どうしてまたそんな場所に?」

2024年2月上旬。少し大人になったわたしは、いつの間にか世界中を旅するようになり、そしてまた、次の旅に出ようとしていました。

「そうだなあ、あの辺って、イスラム教とキリスト教の文化が混じり合ってるでしょ。もっと昔まで遡れば、ローマ帝国の支配もあって。その混じり合っている雰囲気を感じてみたいんだよね」

友だちにもっともな理由を述べるわたしは、石油ストーブで温まった自身のくちびるを甘噛みし、県立図書館の高い天井を緩く見つめます。そう、これは半分当たっていて、半分は違います。これまでの旅とはちょっと様相が異なっていて、旅の本当の目的なんて、友だちには言えません。“好きだった人のことを忘れたくて旅に出る”。そんなの、ダサいもん。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/1250秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

「ありあ、『シディブサイド』って街、知ってる?昔そこに住んでいた男爵が青と白色を好んでいて、その地域の建物を、強制的に全部青と白にしたんだって。はちゃめちゃだよね」

「青と白かあ。ちょうどこの、ポカリみたいな感じなのかな。わたしの家、茶色で地味だから、ちょっと羨ましいかも」

実際に見たシディブサイドの街並みは、あの時校舎裏で想像していたものよりも、ずっと青くて、ずっと白くて、まるでおとぎの国のようでした。そもそも、このチュニジアという国に着いてからというものの、およそ想像通りであったことがありません。行き交う人々はみな陽気で、話しかければ、きらきらな笑顔。『アラブの春』と呼ばれる民主化運動の発端となった国とは思えないこの雰囲気を、もし好きだった人が目の当たりにしたら、どんな反応をするのかな。ひと際に長いまつ毛の奥からのぞかせる、きっとまっすぐなまなざし。わたしはそのまなざしが好きで、ちょうどさっきからすれ違う、チュニジアの人々のように。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F2.8 /1/40秒 /ISO3200
フィルムシミュレーション : ACROS +グリーン

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F5.0 /1/40秒 /ISO3200
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

歩き疲れて身体は悲鳴をあげているはずなのに、夜眠りにつくことを怖いと感じるわたしは、明日の旅をする資格があるでしょうか。

思い出したくないと考えていることを、夢は、わたしの記憶の奥底から削り取ってくるよう。ローマテルミニ駅からシチリア島のシラクーサに向かう寝台特急は、窮屈な心情に追い打ちをかけるように、不気味な雰囲気を醸し出しています。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/105秒 /ISO1000
フィルムシミュレーション : クラシッククローム

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/900秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

「いまは、シチリアに行きたい気分かな」

「シチリアって、イタリアだっけ?でも、マフィアっていう怖い組織がいるって聞いたことがあるよ。大丈夫なの?」

「たしかにマフィアの起源はシチリアって言われているけれど、街中が華やかで、それから食べ物も美味しいんだって。それからね、シチリアを含め、地中海沿岸の国には、ねこがいっぱいいるんだよ。ありあ、ねこ好きでしょ」

「また食べ物の話?でも、ねこがいっぱいなのは嬉しいかも。じゃあさ、大人になったら、いつか、いっしょに……」

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F2.8 /1/350秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

シラクーサのねこさんは、どこか自身に満ち溢れています。シチリアを住処とすることを誇りに思っていて、旧市街の路地に迷い込んだわたしを嘲笑っているみたい。その表情や視線からは、高貴ななにかを感じるのですが、そんなねこさんの姿に緊張してしまっているわたしって、なんだか変ですよね。道に迷っているはずなのに、ふふふって口をすぼませるわたしを、ねこさんはどう思っているのかな。

「ねこさん、シチリアのねこさん。わたし道に迷ったみたいなのだけれど、ドゥオーモはどちら?たぶんもうすぐなのだけれど、この街って、およそ迷路なんだよね。」

高貴なねこさんに対して、自身の言葉も心ばかり丁寧にはなるものの、そのねこさんといえば、相変わらずそっぽを向くばかり。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/1400秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ


「地中海沿岸は、日本の東北地方とほぼ同じ緯度なのに、一年中あったかいんだ。日本のような四季なんてまるでないかもしれないけれど、寒いのは苦手だから、そっちの方が好きかなあ。ありあはどう思う?」

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/70秒 /ISO3200
フィルムシミュレーション : PRO Neg. Hi

あの時、わたしはなんて答えたんだっけ。たしかその折、桜も咲こうという時期で、そうだ、卒業と同時にもうすぐ離れ離れになってしまうことにザワついたわたしの心が、好きだった人の話をまるで遮ってしまっていたのだった気がする。

「じゃあ、桜も咲かないの?それは嫌かも。満開でなくたって、こんなに綺麗なのに。」

心にも思っていないことを言って、好きだった人の目を見ることもなく。校舎裏のフェンスからプールにかけて続く五分咲きの桜をか細く仰ぎ見て、ほとんど存在しない、しかしきちんと存在する、桜の花びらのようなひとり言を。

“桜の時期なんて、来なければ良いのに。ねえ、好きな人。あなたはそう思わない?”
本当に言いたかったことを胸にしまって、心の花は蕾のまま、開花することはありませんでした。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F2.8 /1/6000秒 /ISO3200
フィルムシミュレーション : Velvia

マルタ共和国の沿岸部にある丘の上で、旅の最後に、桜の花と出会いました。正確には“桜のような花”なのですが、その時のわたしはそれを“桜の花”と思ったのですから、ここではそう呼ぶこととしましょう。

この旅では、たくさんの人や物と出会いました。美味しいものをいっぱい食べましたし、そこに住む方々、あるいは同じく旅をする方々と、たくさん話をしました。しかし、桜の花と出会ったことをどう表現すれば良いのか、わたしには分かりません。先ほどから頬をつたうなにか雫のようなものは、乾いた大地にはおそらくなんら恵にはならないであろうその雫は、ぽたぽたと、こぼれるばかり。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/420秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : PROVIA

思えば、わたしはなぜ、好きだった人と話した旅のことを、校舎裏から始まった人生で初めての旅のことを、忘れたい、上書きしたいと考えていたのでしょうか。結局卒業まで告白できなくて、お互い別々の高校に進学して、失恋したから?それから何度も何度も夢に出てきて、未練たらたらなわたし自身を、煩わしく思ったから?

そのすべてがきっと正解なのですが、しかし結論から言うと、校舎裏の旅を、今回の旅で上書きすることはこれっぽっちもできませんでした。それを裏付けるに、旅で携えた『上書きノート』には、ひとつとして、上書きされた事がらがないのです。

うだるように暑い夏の日に、ポカリスエット片手に巡った、チュニジアのこと。お互いの部活終わり、秋の夕暮れに焼かれながら語った、シチリアのこと。そして冬と春の間、さようならの間際にふたりで彷徨った、地中海のこと。同じ国同じ場所への旅であるにも関わらず、共通点といえば、わずか地名くらい。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F6.4 /1/1600秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

2024年3月下旬。旅を終えて、ひとつだけ言えることがあります。それは、少なくともわたしにとって、旅を旅で上書きすることはおよそできないということ。それはつまり、好きだった人とした旅の記憶と、これからも向き合っていかなければならないことを意味するのですが、「それじゃあ辛いままじゃん」と囁くわたしの脳にいま言えることといえば、「うん、そうだと思う」とだけ。

だからわたしは、これからも旅をするのだと思います。これまでもそうしてきたように、上書きすることのできない辛い旅(恋)とどう向き合っていけば良いのかを、見つける旅を。たくさん。

X-S20 /XF35mmF1.4 R /F8.0 /1/1800秒 /ISO320
フィルムシミュレーション : ノスタルジックネガ

およそ1年半の間の校舎裏での記憶を、単に“恋”と呼ばずに“旅”と表現しているのは、なにも、好きだった人との会話がおよそ旅のことだったからというだけではありません。これはある種の“覚悟”であり、気持ちの問題です。たとえば人生を終える間際に、旅の総集編を一冊の写真集としておさめようと考えた場合、その写真集のひとページ目に、校舎裏からはじまった好きだった人との旅のことを、のせたいのです。

さて、次はどこを旅しようかな。そうやって旅のことを考えながら、部屋の窓から外を見れば。もうすぐ満開の、桜の木。

P.S. この度の文章を書くことができたのは、紛れもなく『写真』のおかげであるといえます。“衝動”と“思考”のふたつを、わたしは人生で何度も繰り返してきました。ここでいう“衝動”とは旅のことであり、美味しそうなものを食べたり、すれ違った人々に話しかけるなど、旅の間の行動は、およそ“衝動”的といえます。しかし旅のあと、旅の間に撮った『写真』を見返すことで、わたしは“思考”することができます。あの時あそこに行ったことで、こんなことを知ることができたなあ。あそこであの人と話したおかげで、いまのわたしはこう思うことができているのかも。この度の文章のように“衝動”と“思考”を繰り返すことで、わたしという人間は成長してゆくものなのだと、信じて疑いません。だからわたしは、『写真』を素敵だと思います。
 

Profile

ありあ

写真家、文筆家。山形県出身。大学で西洋美術史を学んでいる。
2021年に祖父の形見としてフィルムカメラを譲り受けて以来、写真の魅力に取り憑かれてしまう。幼少期から書いている日記や、世界中を旅した際に記した旅日記を、写真とともにSNSで発信し話題に。WEBメディア「MARSH」で連載コラムを担当。

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