『X-T50と北イタリアと、あと旅日記と』後編〜ありあ vol.4〜
夏の終わりに相応しい静けさが、朝7時ころのわたしの部屋を包み込みます。セミの鳴き音が聞こえなくなったら、わたしの中での夏を終わりにしようと決めていましたが、このころが、まさにそのようです。眠たい目をこすりながら開くノートPCには、“北イタリアひとり旅日記”と“FUJIFILM X-T50”の文字。そう、ひとつにおさまりきらなかったコラムの後編を、書かなきゃ。
北イタリアをひとり旅した時に書いた旅日記の中に、最近購入した『X-T50』というカメラが何度か登場し、「わたしのアイデンティティである旅日記にこれほどカメラのことが書かれているなんて!」とびっくりしたことは、コラムの前編で述べました。そしてそのことをきっかけに、そのカメラのことを言及した旅日記を抜粋してコラムとして書いてきたわけですが、いまから書くのは、そのコラムの後編。
後編のはじまりは、2024年7月15日午後、水の都ヴェネチアの少し東にあるムラーノ島から。ちょうどいまみたいに静けさでいっぱいの小さな教会から、旅日記とカメラの共演をお届けしましょう。
-2024.07.15 at Chiesa Arcipretale di San Pietro Martire in Murano, Italy-
教会の中でカメラのシャッター音を響かせたらどんな感じなのか、誰もいない、ひんやりと静寂なこの教会で試してみたくなったことを、神さまは許してくださるでしょうか。その音は石柱やステンドグラスに吸い込まれるように消えていき、しかしわずかながらに反響する音が教会を包み込み、そしてわたしに返ってくる。言うまでもなく心地よいそのシャッター音を、あるいはその音を心地よいと感じたわたしの記憶を、この教会の中に閉じ込めて保存しておきたい、そう思いました。次にここムラーノ島へ来る際には、きっとまたこの教会を訪ねよう、必ず。
-2024.07.16 at Zattere in Venezia, Italy-
時差ボケで寝付けず、早朝から散歩をしてしまったことを良しとするかどうかは、この道を行った先にかかっていると言えます。ええ、さっきわたしは、ホテルを出たところの道で、噛みかけのガムを踏みました。多分グレープ味の。だからこの道の先にある運河の様相によっては、今朝の散歩はきっと良い気持ちで終えられるし、あるいはテンション低めの朝食を迎えることになるかも。もしそうなら、写真も残っていないだろうなあ。
-2024.07.16 at the hotel in Venezia, Italy-
美味しいものはなんでも撮りたくなってしまうわたしでも、コンチネンタルブレックファストというものには、特にわくわくしてしまいます。ホテルの朝食として、このスタイルはヨーロッパでは当たり前だと言われるけれど、生ハムやチーズ、バゲットなんかを朝食で食べるなんて、米どころで育ったわたしには考えられませんでしたから、わくわくしたっていいじゃないですか。ちょうど隣ではしゃぐ、夏休みのイタリアガールたちのように。
-2024.07.17 at Paolo’s house in Tirano, Italy-
「記念に、パオロさんの写真を撮らせてください。きっと素敵に撮りますから」昨日泊まるところがなくて転がり込んだ家の主にできることといえば、それくらいしかありませんでした。どのホテルも満室で困り果てていたわたしを助けてくれたこの家族は、スイスアルプスを目前に控えた山岳地帯とは真逆のあたたかさをもって、わたしを歓迎してくれたのです。
-2024.07.17 at Lago Bianco in Ospizio Bernina, Swiss-
ファインダーをのぞくまで、そばに牛さんたちがいることにまるで気がつきませんでした。スイスアルプスの雄大な景色を目前に、この牛さんたちは、どんな乳を出すのでしょう。そう思いながら、数十分ほど、乳搾りを見学しました。
-2024.07.18 at Tirano Station in Tirano, Italy-
スイスアルプスを満喫し、その記憶を脳に、そして写真に焼き付けてきたわたしが見たのは、これからスイスアルプスへと旅立とうとする、まさに昨日のわたしのような少年の笑顔でした。
少年さん、あなたはきっとこれから、素晴らしいものを見ます。わたしが見たように、あるいはわたしが見てきたものよりももっと素敵なものを見るかもしれません。その感動を、この後2時間足らずの鉄路で味わうことのできるあなたを、わたしは羨ましく思います。初めてアルプスの山々を目前で見た時の高揚や胸の高鳴りなんかを、わたしはもう体験することができないのですから。
-2024.07.19 at Riomaggiore in Cinque Terre, Italy-
「おーい、そこの、かっけえカメラ持ってるじゃん!俺もめっちゃかっこよく飛び込むから、良いタイミングで撮ってくれよ!」
ちょっと話を盛っているかもしれませんが、でもそんなことを、岩場にいる青年から言われました。「かっこよくって言ったって、さっきから見てたけど、あなた失敗しまくってるじゃない」なんてひとり言は背景に広がるリグリア海に流すとして、そうお願いされたからには、断るにはいきません。というよりも、このチンクエテッレの陽気な雰囲気が、わたしの気持ちも明るくさせていたのだと思いますが、とにかく、やる気満々でカメラの設定をいじり、彼にOKのサインを出しました。
-2024.07.19 at Vernazza in Cinque Terre, Italy-
北イタリアをしばらく歩いて旅しようと決めたわたしですが、1日目でもう辞めたいと考えてしまったのは、容赦のない急な坂の多いチンクエテッレのせいです。しかし同時に、チンクエテッレを乗りこえ、トスカーナ州に至るまで歩き旅をきっと続けられるだろうと確信できたのも、ここチンクエテッレの悠々たる景色のおかげであると、わたしは旅の終わりに思うでしょう。だから、さっき撮ったヴェルナッツァとリグリア海の写真は、歩き旅のお守り。ありきたりかもしれませんが、挫けそうになった時にはカメラの電源を入れて、その写真を何度も何度も見るに違いありません。
-帰りの飛行機にて-
写真を撮ることを旅の目的としていないわたしがこんなにもシャッターを切った旅が、これまであったでしょうか。写真を撮った後、液晶画面で撮った写真を見てにやにやしているわたしの表情を何度も見てきたカメラさんは、わたしのことをどう思っているのかな。中央アジアあたりの上空を飛ぶ飛行機の中で、いまもまさに、旅路で撮った写真をカメラの液晶画面で見てにやにやしているわけですが、カメラさん、お願いだから気持ち悪いだなんて言わないでね。
カメラとそれを使う人との関係性というものが十人十色なのは、いうまでもありません。それはつまり、客観的に見ればその関係性に正解はないのですが、しかし見方を変えれば、主観的には正解があるといえるのだと思います。要するに、わたしがわたしのカメラとの関係性をこうだと決めれば、少なくともわたしの中では、それが正解となるわけです。
これまで、わたしはわたしのカメラとの関係性をそれほど深く考えてこなかったわけですが、わたしの分身と言えるほど大切な存在である旅日記(あるいは日記)にカメラのことがたくさん言及されていることを鑑みれば、今回の北イタリアひとり旅は、ある種、わたしの人生におけるターニングポイントであったと振り返ることができるかもしれません。
ひとことで言うならば、“対話する関係性”でしょうか。これはいま思えば当然のことなのですが、誰とでも何とでも対話したいわたしは、カメラとも、お話をしたかったのです。「ねえカメラさん、あなたはいま、何を写したい気分?」「さっき撮った写真の設定、カメラさんはどう思う?」そんなふうにお話をしたいカメラと出会えたことを、わたしは幸せに思います。
P.S.
ひとつ、謝らなければならないことがあります。正直に言いますと、これほど富士フイルムさんのカメラにハマるとは思っていませんでした。「小さくて可愛い!」と衝動のように手に入れた『X-T50』も、それ以前に使っていた『X-S20』も、これらカメラに対する愛情が衝動から確信へと変わってゆく日々を過ごすにつけ、もうなくてはならない存在になってしまったのです。
コラムを書かなければ、つまりカメラや写真のことを言葉にしたり文章にしたりすることがなければ、きっと生まれなかったものがいまここにあることを知りました。