写真で世界は愛おしくなる〜tsubaki vol.1〜

“いつかなくなる、どこにでもある風景”
いつの頃からか、私が写真を撮るときのコンセプトとしてこの言葉を使うようになった。
日常的に写真を撮っていると、あまりにも当たり前すぎて、目にとめたり、わざわざ記録することのない些細な日常の出来事が、とても愛おしくなる。
黄昏時の陽射しや雨の日にできる水たまりの反射、通りすがりの人の後ろ姿や偶然見かけたなにかしらに心が動いたとき、私はシャッターを切る。そのシーンの裏側にどんな物語があるのだろうと勝手に想像して優しい気持ちになる。
人物の撮影をするときも、私は自然体の写真を撮るのが好きだ。動いている人に呼吸を合わせにいくのが楽しい。なにかに夢中になっている人、一生懸命なにかに取り組んでいる人を撮るとき、その人の“愛おしさ”が流れ込んでくる感じがして、たとえそれまで私が興味のなかったものでさえも興味や関心、愛着を抱いてしまう。
そうして撮影された写真を多くの人に見てもらって、感想を聞くうちに私の写真は愛おしさが詰まっているんだなと実感するようになった。
2025年のXシリーズの新ブランドタグラインが『愛おしさという哲学。』になったと知った時、私の写真観は本当に富士フイルムさんが大事にしている文化とシンクロしてる!と少し気恥ずかしくも嬉しくなった。
「愛おしさを哲学する」
それは私にとって写真を撮る行動そのものだったり、なぜその写真を撮ったのかの理由だったりする。「なんとなくいいな」で写真を撮っていたけれど、Xシリーズを使うようになってから「なぜこの瞬間を“いいな”と思ったか」を掘り下げるようになった。
ただ綺麗に咲いている花より、ふとした瞬間に季節の変わり目を教えてくれる季節の木々や花々の散りゆく様に思いを馳せてシャッターを切るのが好きだ。
ただ綺麗なものを綺麗に撮るだけではない奥行きというか、綺麗だ、美しい、と思うものもずっとそのままではいられないという現実や、変わりゆく摂理に刹那的な感傷を勝手に感じて「いいな」と思って撮ったのかもしれないけれど、その写真を見た人が「言語化できないけれどなんかいいな」とか「この写真好き」と言ってくれるのは、シャッターを切ったときの私の気持ちが、その写真にきちんと乗って伝わっているからではないのかと思うようになった。
“愛おしい”という気持ちで被写体に向き合うとき、おそらくその写真はどこかの誰かに共感してもらえる作品になる。人でも物でも風景でも“いいな、好きだな”と思った瞬間にシャッターを切れるのは、そう思った瞬間にカメラのシャッターボタンに手をかけている人以外にはできないことだと思うから、私は常にカメラを携えていたい。
そうして私が大切にしたい気持ちだったり、大事にしたいものだったりを写真にわざわざ残すことで、些細な日常の見方が変わったり、自分の中の“大切なもの”を改めて気に留めるような人が増えてくれると嬉しいなと、写真を撮る理由がまた新しく生まれた。
身近にあって、日常に溶け込んでしまっているけれど、大切にしているもの。そうしたものをきちんと記録してみるだけでもまた違った写真の楽しみ方ができるような気にもなった。
こどもの頃は目に映るものすべてが新鮮でわくわくが溢れていたはずなのに、大人になったらそんな気持ちを忘れがちになるとかいうけれど、写真を撮っていると毎日が楽しくてしかたない。
写真を撮るたびにそれまで苦手だったり興味のなかったりしたものも好きになれるし、大事にしたいものが増えていく。
私なりに“愛おしさを哲学”したとき、“写真で世界は愛おしくなる”というところに着地した。
人の息遣いや、営みのようなもの、ダメな部分も好きになれるような、私が愛おしいと思うものを写真として残していきたいと思う。
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