『眠る』前田エマ vol.4
※ソーシャルディスタンスを保ち、安全に十分に配慮したうえで行動・撮影を行っております
眠るのが好きだ。少しずつ休憩を挟めば20時間くらいは眠ることができるし、ほぼ毎日のように昼寝をする。しかし、数年前までは、眠ることに少し罪悪感があった。
「私に明日が来なかったら、やり残した事がまだたくさんある」
自分にはどうしようもない、ほんの少し先の未来に怖くなって、どうにもできていない今の自分に少し腹が立つ。
「今、私が眠ろうとしている間に、あの人は一生懸命努力しているのかもしれない」
「今、私が部屋で得体の知れない寂しさにウジウジしている間に、あの子は誰かと一緒にいるのかもしれない」
ちっぽけなことやどうでもいいような小さな世界に対して苛立ちのような気持ちをどんどん募らせて、仕舞いには心が汚くなっていく。
それなのにどういうわけか、私を今、生かしてくれているのは眠ることなのだ。
人は誰でも、いろんな種類の、その人なりの、苦しさや寂しさを心の中にぶら下げて生きている。もちろん、悲しみで心を満たすことが必要なときだってあるはずだけれど、逃げることだって大切だし、悲しみに蓋をすることが大事な時もある。
寝ている間は、心が空っぽ。空っぽのなかで好きなように泳ぐ。その世界から覚めた時、大体のことは大丈夫になる。私が心底根明でめちゃくちゃにポジティブなわけは、とにかくいつでもちゃんと眠るからかもしれない。
でも今年は、目覚めてもずっと眠りの世界のなかみたいで、だからなのかいつもよりたくさん眠ってしまって、自分で撮った写真を見返すことで本当の世界の輪郭を何度もなぞって確かめているような感じだ。
人は、いろんなことを忘れていく。それは当たり前のことだし、忘れるから生きていける時もある。でも、覚えておきたいことを上手に覚えておけない。しかも、今は重要じゃないことが後でとんでもなく大事になったりする。写真に何かが残せるわけじゃないと私は思っている。でも、何かを思い出すきっかけになったり、なにが大切だったのか教えてくれる時もある。
私にとっては、それで充分なのだ。
私には、毎日を丁寧に生きることなんて難しくて、でもそれはそれでいいと思っている。それなのに花を欠かさず飾るようになった。“花をいつも切らさない”なんてのは、どこかの誰かの話みたいな気分だ。
花があると、それに見合うような生活をしたいと思える。掃除もこまめにするようになったし、ごはんもちゃんと器によそう。誰かのためじゃなくて、私が私の日々をちゃんと手にとって、そのカタチを確かめられるよう、花を飾るのだ。
車から東京を眺めた。
ガラス1枚を隔てて見る景色の、温度がいつもと違うように感じる。水槽の中から、揺らめく光のかけらを眺めているみたい。
びゅーん。たくさんの人が、写真を撮っていた。
ブルーインパルス。
車に乗ることが多くなった。
この先、私はどこで暮らすのだろう。ここにずっといるのかな、どこかへ行く日が来るのかな。いつでも、どこかに行けると思っていたけれど。でも、どこかへ行きたいわけでもないのかな。
旅へ出られないというのは、心を置いてけぼりにするのが難しい。一度心から離れて、またここへ戻るのが私は好きなのだと思う。
東京のホテルへ、家族と宿泊。贅沢は、活力なのかもしれない。ホテルで働く人の姿を見て、私も私にできる心をこめたことを日々、していきたいと思った。最近、お店で働く人を見ても、同じように思う。優しさは与え損だと思っていたのだけれど、そうではないと思い始めている。だって、いい空気をもらうと、私も少し心が丸くなるのだ。そうすると、なんだってできそうな嬉しさで心がふわっと膨らんでくる。
自分の人生を一生懸命に生きる、気のいい友人が私には多い。友人だけは、努力で手に入れられるものじゃないから、私はそこんとこは、本当に幸せ者だなって思う。彼らと一緒にいられるように、私も私の人生を、どうにか満足できるようにやっていかないと、といつも思わせてもらう。