富士フイルムのカメラに出会っていなかったら、こんなに毎日、スナップ写真を撮っていなかったかもしれない。〜記憶カメラ vol.2〜
こんにちは。ふだんは写真やカメラに関するブログ『記憶カメラ』を日々書いている、いわゆる中の人です。このコラムは全3回の連載で、今回はその2回目。前回のvol.1からあっという間で、ちっとも慣れたりする間もなくvol.2の執筆を迎えてしまったわけですが(笑)、今回もブログを書くように素直に富士フイルムファンの一人としての気持ちを綴っていきたいと思います。どうぞあたたかい目で読み進んでいただけたらと思います。
前回のvol.1では『X-T5』について書きましたが、今回のvol.2のテーマは“富士フイルムとスナップ写真”というお話。タイトルにも書きましたが、僕がこれほどまでに日常的にスナップ写真を楽しむようになったのは、間違いなく富士フイルムのカメラたちと出会ってから。そこには、富士フイルムのカメラの根源的な魅力が詰まっていると思うので、そのあたりの“富士フイルムのカメラが持つ、撮り手との独特の距離感”みたいなことについて書いてみたいと思います。
はじめに、富士フイルムさんへスナップ写真についてこんな質問をしてみました。
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Q. 記憶カメラからの質問
富士フイルムのカメラは特に海外の人たちに人気な印象がありますが、海外の人たちのスナップ撮影のニーズなどは日本のニーズなどと違いがあったりしますか?
また、そうしたニーズの違いが製品開発や機能開発になにか影響を及ぼしたりしていますか?
A. 富士フイルムさんからの回答
特に大きな違いは無いと思いますが、強いて挙げるとすると、日本の方のスナップでは、ありのままの姿を切り取った写真が多く、海外の方ですと、ドキュメンタリー風に撮られる方が多いように思います。製品開発については、各国の意見をニュートラルに分析して、反映しています。
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コラムを書かせていただくにあたり、今回も富士フイルムさんにふだんなかなかお聞きできないような国内・海外のスナップ写真事情についてお聞きしてみました。質問がざっくりしすぎでお答えしづらかったかと思いますが、とても興味深い回答だったので、そんなことをヒントに日々のスナップ写真とカメラの存在感について綴っていきます。
以降は、ふだん通りのブログを書く口調で綴っていくので、どうかご了承を。リラックスしてお付き合いください。
“毎日いっしょに暮らしている”という感覚がある、Xシリーズのカメラたち。
そもそも僕が日々ブログを書き続けているのは、それだけ日々カメラと触れ合っているからで、ほぼ毎日なにかしらの“カメラとの日常やその写真”とのエピソードを日記のように書いている。
その日の気分や撮りたいシチュエーションをイメージしていろんなカメラやレンズを交換して過ごしているんだけど、その中でもメイン機となっているのがXシリーズのカメラたちである。
感覚としては、道具というよりもはや家族とか友達のような存在に近い。とにかくどこへ行くにも必ず一緒で、それはなにもかしこまった外出時だけじゃなく、それこそ辺りをただ散歩する時や、なんならコンビニへ出かける時すらなにかしらのカメラがいっしょだ。
富士フイルムのカメラたちには、そんな撮り手に変に「撮らなきゃ」と構えさせず、もっと自然体でラフにカメラと過ごす時間をさりげなく提供してくれる雰囲気がある。そう、人間でもそうだと思うけど、必要以上に押しつけがましさが無いのが心地いいというか、撮影道具である以前に、きょうも「カメラといっしょに過ごそうよ」と語りかけてくるような“撮り手との距離感のとり方が絶妙”なのである。
X100シリーズとX-Proシリーズが
“ラフさと本格さが同居するデジタル写真機の楽しさ”を教えてくれた。
そう、つまり富士フイルムのカメラたちはその存在感からして「いつもいっしょにいたい」とさりげなく感じさせてくれるカメラで、そういう意味では生粋の“日常スナップカメラ”なのだ。なかでもその思想を最も色濃く感じさせてくれるのが、Xシリーズ最初期からのコンデジX100シリーズとレンズ交換式のX-Proシリーズだ。
いまだに世界でも唯一無二のハイブリッドビューファインダーを積むこの二機種をはじめて手にしたときは本当に驚いた。ミラーレスカメラというジャンルでは当たり前のEVF(電子ビューファインダー)だけじゃなくて、なんとフィルム時代のように自然光を燦々と感じてOVF(光学ファインダー)でも目の前の世界を切り取ることができるのだ。
そういう意味ではバリバリの本格ハイテク機なんだけど、それを感じさせないフレンドリーさがこのカメラたちの真骨頂。そのクラシカルなデザインの佇まいと、APS-Cセンサーサイズならではのジャストな大きさと重さ。「ちょうどいい」というのを絵に描いたような、肌身離さずというのが実によく似合うカメラなのである。
そういうカメラだと、自然と毎日、手に取り、どこへ行くにも連れ出すようになる。カメラは持っているけど“週末や特別な日だけ持ち出すもの”という使い方の人も少なくないと思うけど、富士フイルムのカメラだと“もっと毎日のもの”になる。これって、究極のコスパがいいカメラじゃないか!と、僕なんかは本気で思っている(笑)
思い出を撮るというより、
毎日持ち歩いているから「自然と思い出がたまる」という感覚。
世の中には優秀なカメラがたくさんあるけど、こればかりは“まず持ち出さないと”いい写真や好きな写真は撮れない。だからと言ってコンパクト重視でもちょっと物足りないと感じるのも事実。そこは軽量コンパクトでもできればファインダーをのぞいて撮りたいし、本格的な写真撮影体験も堪能したい。
そんなちょっと欲張りすぎやしないか?という要望にさらりと応えてくれるのが富士フイルムのカメラたちだったりする。
僕は大きなカメラも使うし、コンパクト重視のカメラも使うけど、「ちょうどいい」という気分で言うとやっぱり富士フイルムのカメラを持ち出す機会が物理的にいちばん多くなる。家の近所の散歩から、自然風景、街中のストリートスナップ、家族や友人と出かけた先での記念ショットまで、カメラを入れ替えることなく一台でさらりと過ごせてしまう万能性も“ちょうどいい富士フイルム“の利点だ。
こんな“毎日持ち歩いてもらえるカメラ”という製品づくりの思想が、Xシリーズ誕生時からずっと息づいて現在のラインナップに至る。僕はそんな思想が好きで、現行機だけじゃなくて初代機である『X100』や『X-Pro1』、『X-E1』、『X-T1』も使っているけど、10年前から現在まで、そのこだわりは一切ブレることなく脈々と受け継がれながら進化していると強く感じる。
そこはやはり、富士フイルムとは“写真屋”なんだなと実感する。写真があることで人々の日々の人生をどんなふうに豊かにすることができるか?ということを突き詰めている企業ビジョンの結晶であり“カタチ”なんだと思う。
そうそう、富士フイルムさんは昨年、ひっそりと『写真幸福論』なるプロジェクトを始動されている。これもまた、これみよがしに宣伝していないところが富士フイルムさんらしいのだけど(笑)、カメラ屋というより“写真屋”として世の中のためにできることを模索しつつ、とにかく走り出そうという静かな熱さが感じられるプロジェクト。興味のある人はぜひ一度、その活動を専用サイトに見にいってみてほしい。
ダイヤルで露出を決めて、その日のフィルムシミュレーションを決めたら、
その日のスナップ撮影のスイッチが入る。
最新のGFXやX-H2系シリーズなどではモードダイヤルの機種も増えてきているけど、フィルム時代から続くダイヤルオペレーションの機種が多いのも富士フイルムらしさのひとつ。今回紹介したX100シリーズやX-Proシリーズ、X-Eシリーズ、前回紹介したX-Tシリーズなんかも、電源を入れずに視認性よく露出調整ができる。
もちろんフルオートで撮影もできる最新ミラーレス機なんだけど、やっぱりね、ダイヤルをカチャカチャしながら操作する感覚は「機械じゃなくて僕が撮っている」という気分を上げてくれる。そして、その日のフィルムを装填するように“その日のフィルムシミュレーション”を決めてセットすれば、気持ちの中に「さぁ、撮ろうか」というスイッチが入る楽しさもある。
富士フイルムのカメラたちが、さりげない日常スナップショットから本格撮影までハイブリッドにこなしてしまう要因だ。一見、とがった製品が多い印象がある人もいると思うけど、実は汎用性という懐の深さも持ち合わせているのが、富士フイルム製品が海外でも人気な理由ではないかと思っている。
冒頭の富士フイルムさんへの質問の回答にある通り、海外の人たちは日常のありのままのスナップ写真もきっと撮っていると思うけど、一方でドキュメンタリーな写真を撮る本格的道具としての高い質と機能性・芸術性も求める。
考えてみるとフィルムで写真の世界をみ続けてきた富士フイルムは、もうずっと昔からグローバル企業として世界の写真ニーズを見つめてきた。10年前に高級デジタルカメラ市場に参入する時に、それまでの長きに渡る“グローバル感覚”が自然と製品開発のバックボーンになり、世界中の人からみて“いいモノ”というXシリーズができあがったのかもしれない。
カメラを“特別な日のモノ”から“毎日のモノ”へと挑戦し続けているのが、
写真屋『富士フイルム』だと思っている。
たしかに世の中はスマホカメラで撮られる時代になっているし、その性能も年々向上しているから、いわゆるカメラは実用品から嗜好品になったとも言われる。でも、写真の奥行きや空気感、プリントしたときのリアリティやアート性、撮る瞬間の楽しみやカメラが介在することで生まれるコミュニケーションみたいなものは、やっぱりカメラで撮るほうが豊かで濃かったりする。
富士フイルムはそんな“日常の日々のなかのカメラ”としての立ち位置を、まだまだこだわって追いかけている気がする。たぶん、僕がここまで惹かれ、ここまで年がら年中持ち歩いているのも、その注ぎ込まれた尋常じゃない熱意みたいなもののせいなんじゃないかと思っている。とりつかれすぎだろうか(笑)。誤解を恐れずにいえば、僕はそれを“富士フイルムの魔法”と呼んでいる。
“魔法”とはまやかしという意味ではなくて、言葉や理屈、理論だけではこの世で説明がつかない“魅力”、というふうにここでは受け取ってもらえたらと思う。そういうチカラが富士フイルムのカメラには宿っているのである。
今回もかなり小っ恥ずかしいことを書いたという認識はじぶんでもあるけど、そこは世界の片隅の“一人のファンの富士フイルム愛」ということであたたかく見過ごしてもらえたらと思う(笑)
さて、これで2024年と共に走りはじめた本コラムだけど、たぶんこのコラムvol.2が公開される頃にはファン待望のCP+ 2024とX Summit Tokyoが開催され、またひときわと富士フイルムのカメラたちに注目が集まっていることだと思う。そんな盛り上がりと世の中の声を感じながら、次回のコラムvol.3も熱くお届けしたいと思う。
長い“愛の叫び”を最後まで読んでいただき、たいへんありがとうございました!