『“懐かしい”という感情と向き合うこと』 〜ありあ vol.2〜
「わたしはどうして、クリームソーダを撮りたいと思っているのだろう」
近所の喫茶店でクリームソーダを注文して、そのクリームソーダを撮ろうとカメラのファインダーを覗いた時、ふと、そんなことを思いました。
ある“モノ”の写真を撮りたい理由なんて、考え始めたらまるできりがありません。古めかしい喫茶店とのコンビネーション、透き通るエメラルドグリーンのソーダ水、そして何より、美味しそう。これらの要素がわたしの脳にどういった働きかけをしているのかはおよそ定かではなく、世の中(ここでいう世の中とは、わたしにみえている世界を表す)ではきっと、そんなことが呼吸の回数よりもたくさん起きているのだと思います。
さらに言えば、SNSにこの写真を投稿すれば、「エモい」とか「レトロ」とか、フォロワーのみんなはそんな感想を持ち合わせてくれるでしょう。何より、わたし自身がそういった感想を持ち合わせているのですから、“自己満足”のような言葉で片付けてしまえば、わたしがクリームソーダを撮る理由なんて、やはり考えなくても良いことなのかもしれません。
しかしながら、それでもわたしの心の奥底では、何かがひっかかっていました。それは、「なぜわたしは古めかしい喫茶店でクリームソーダを撮るのか」という問いと同時に、“古めかしい喫茶店”や“クリームソーダ”といった場所やモノに、“懐かしさ”を感じていたからにほかなりません。喫茶店やクリームソーダをみて懐かしいと思うことは、特段おかしいことではないでしょう。昭和中期からあるというその喫茶店にはレコードやカセットテープが置いてあって、クリームソーダ自体にも、どこか懐かしさを感じます。世代に関係なく“レトロブーム”という言葉をよく聞きますが、“レトロ”な物事に“懐かしさ”を感じることは、“ブーム”というくらいになんら珍しいことではないはずです。しかしよく考えると、ひとつの疑問が生まれます。それは、平成生まれのわたしが、なぜ、経験していないはずのカセットテープやレコード、そして昭和を感じさせる喫茶店や子どもの頃それほど飲む機会のなかったクリームソーダを“懐かしい”と感じるのか、ということです。
“懐かしい”とは、なんでしょうか。そして“懐かしい”にはどんな役割があるのでしょうか。この2つのことを知ることができたら、もしかしたら、わたしがクリームソーダを撮る理由が分かるかもしれない。心の奥底にある引っかかりが取れて、もっともっと、写真のことを好きになれるかもしれない。そうしてわたしは、自身が“懐かしい”と感じる写真を撮りながら、学術的な知見も参照しながら、“懐かしい”という感情と向き合ってみることにしました。
マーケティングの分野からノスタルジア(ここでは、日本語の“懐かしさ”と同義とする)を研究したBarbara B. Stern(バーバラ B. スターン)は、「“ノスタルジア”は、“個人的ノスタルジア”と“歴史的ノスタルジア”に分けられる」と言います(1)。Sternのいう個人的ノスタルジアとは、自身が経験したものごとからなる記憶に基づく懐かしさであり、また歴史的ノスタルジアとは、自身は経験していないけれど、たとえば人づて、教科書、テレビや広告等の外部からの影響により得られた“古き良き時代”という認識に基づく懐かしさを意味します(2)。後者は“刷り込み”に近く、レトロブームにみるわたしたち消費者の行動は、この個人的ノスタルジアと歴史的ノスタルジアを巧みに利用したものであるというわけです。
うーん、なんだかしっくりくるような、こないような。こういう時は、実際に撮影した“わたし自身が懐かしさを感じる写真”を用いて、考えてみることが良いかもしれませんね。ではいくつかの写真を、Sternのいう2つのノスタルジアに分類してみましょう。
水の張った6月上旬の田んぼと、田舎道の写真です。これは、明らかに個人的ノスタルジアだと言えます。田舎町出身のわたしは、小学校も中学校も、通学路はこんな感じでした。雨の降る日は農道がぬかるんでいて、学校指定のスニーカーは泥だらけだったことを覚えています。
台所に佇む、浴衣を着た少女たち。向かいのテーブルでは、ざるに入った茹でトウモロコシが光を浴びています。その光の暖かさは夕暮れ時を思わせ、彼女たちはきっと、これからお祭りに出かけるのでしょう。この懐かしさの分類も、やはり、わたし自身の経験に基づいた個人的ノスタルジアとなります。
木造駅舎の待合室で列車を待つひとりの少女と、海街にある早朝の踏切を写しました。実をいうと、わたしは電車での通学を経験したことがありません。また、通学路に踏切はありましたが、内陸部に住んでいたわたしは、海街には馴染みがなく、それでも感じるこの懐かしさは、歴史的ノスタルジアに分類されるでしょうか。木造駅舎、制服、踏切、早朝の海などの要素は、たしかに、テレビや広告などではよく“懐かしい”ものごととして扱われます。わたしはきっと、自身が経験していないこの懐かしさを「これは懐かしいものなんだ」と受け入れて、そしてまるで自分のことのように、懐かしいと感じるようになってしまったのです。
こうして「わたし自身の懐かしいという感情」を丁寧に分析してみると、懐かしいと一括りにしていた感情が、実は分類できることに気づきました。冒頭の話に戻りますが、平成生まれのわたしが経験してこなかった古めかしい喫茶店や、子どもの頃あまり飲まなかったクリームソーダに感じる懐かしさは、まさに歴史的ノスタルジアに分類されるわけです。ただし、単純に2つに分類できるかというと、そうとも言い切れません。
このコラムを書くにあたって両親に聞いて初めて知ったのですが、わたしは小さい頃、おばあちゃんちでよくカセットテープを子守唄代わりに聴かされていたらしく、またそのテープをぐちゃぐちゃにして、おばあちゃんに叱られていたようなのです。カセットテープなんて、平成生まれのわたしには関係のないものだと思っていましたが、経験したことがないと勝手に決めつけていたものは、実はわたしの記憶の片隅にはちゃんと残っていて、歴史的ノスタルジアと個人的ノスタルジアが絡み合っているような、そんな複合的な懐かしさも、あるのかもしれません。
懐かしさを心理学やマーケティングの観点から分類し、心の引っかかりが取れたところで、今回の文章の要である「どうしてわたしはクリームソーダを撮りたいのか」について、考えます。ここでは、先に述べた内容を踏まえて、「なぜ懐かしいと思うものごとに触れたいと思うのか」と言い換え考えてみましょう。つまり、「古めかしい喫茶店でクリームソーダを撮りたいのは、懐かしさを感じたいから」なのではないかという予想です。この言い換えには、「“懐かしい”はポジティブな感情である」とわたし自身がそう思っていることが前提にあります。皆さんにとっては、いかがでしょうか。懐かしいは、ポジティブな感情でしょうか、それともネガティブな感情でしょうか。
社会学者のデーヴィスは、懐かしさは過去の美しさ、楽しさ、喜び、満足、幸福、愛などのポジティブな感情だと述べています(3)。また、辞書には「かつて慣れ親しんだ人や事物を思い出して、昔にもどったようで楽しい」といった記載もあることから、懐かしいは、多くの人にとって、ポジティブな感情なのではないかと思います。それだけではありません。ネガティブな気分を緩和させるために懐かしさが用いられたり、懐かしさを感じることで自己肯定感を維持・向上させ、さらには自分と他者や社会とのつながりをより強く意識できるようになる役割もあるのだとか(4)。こういった心理学の研究には今後もぜひ注目したいところですが、それら研究を自身に置き換えて懐かしさの役割を考えてみると、確かに、当てはまるところがあるなあと感じます。
落ち込んでいる時、わたしはよく『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画の曲を聴きます。子どもの頃に家族で出かけた際には、必ずといっていいほど、車の中でこの曲が流れていました。クラシック音楽好きだった母の影響もあったかもしれませんが、この曲を聴くと、懐かしいなあという気持ちと同時に、心が落ち着いて、なんだかそばに家族がいるような、ぽわぽわした優しい気持ちになるのです。
また例えば、SNSなどで懐かしさを感じる写真を見つけると、やはり、原因不明の安心感に包まれることがあります。それは個人的ノスタルジアか歴史的ノスタルジアかに関わらず、気づくとずっとその写真を眺めているなんてことも、しばしば。これはもはや中毒と言っていいのではないかと思うほどですが、なんとなくで見過ごしてきたこの感情を精査してみると、「古めかしい喫茶店でクリームソーダを撮りたいのは、懐かしさを感じたいから」という予想は、あながち間違っていないのかもしれません。
レトロブームは、わたし自身がそう思うように、現代社会に生きる人々が「懐かしさを感じたい」、「懐かしさを感じることでポジティブな気持ちになって、社会的な絆を強化したり、自己肯定感を向上させたい」という願望をひとつの要因として、生まれたものなのではないかとわたしは考えています。そして「ブーム」という表現には「一過性」「一時的」といったネガティブに捉えられる側面がありますが、ここまで述べたことを踏まえると、これは“ブーム”という言葉で片付けられる現象ではなく、受け入れられる要因がきちんとあって、一過性ではなく持続性のあるものなのではないかと、そう思うのです。
レトロなものごとが受け入れられていることをレトロ“ブーム”と呼んでしまいたくなる背景には、これが数年前にはあまりみられなかった現象であり、さらに、そのレトロなものごとを経験していない若者を中心に受け入れられていることがあります。しかし先に述べたように、歴史的ノスタルジアという、経験していないものごとに対しても、人は懐かしさの感情を抱くことが分かりました。そしてここ数年の現象として現れたのは、SNSの普及が大きく関わっているのではないかと推測します。SNSの普及によって、地方の田舎町にある、これまであまり注目を集めることのなかった喫茶店や商店街の存在を、簡単に知ることができるようになりました。懐かしさを感じるものごとがどこにあって、そしてそれはどのようなものなのかを、文章や写真で、視覚的にかつ詳細に見られるようになったのです。この「懐かしさの共有のしやすさ」こそが、レトロ“ブーム”と呼ばれるきっかけとなったのではないかと考えます。
皆さんは、写真を撮る時、どのような“モノ”を撮りますか。そして、その“モノ”を撮る理由はなんですか。今回、わたしは自身の心の奥底にある引っかかりをもとに、「古めかしい喫茶店でクリームソーダを撮りたいのはなぜか」を、“懐かしい”という感情を分析するとともに、主に心理学的な側面から考えてみました。しかしこれは、レトロ人気に限った話ではありません。写真には、さまざまなジャンルが存在します。喫茶店とクリームソーダのような懐かしさを感じる写真はもちろん、風景やポートレート、鉄道写真やストリートスナップまで。とある“モノ”に人が惹きつけられ、それをカメラで撮って1枚の写真として残したいと考える時、その気持ちの奥底には、“ブーム”や“エモい”のような言葉だけでは言い表すことのできない、なにか複雑で難解な何かが存在するかもしれません。これらを知ろうとすることは、およそ面倒くさいです。学術的に考え始めたら、論文を読んだり、統計調査をしてみたりと、きりがありませんから。でもそれ以上に、「どうしてこの人はこういう写真を撮るのだろう」「どうしてこういう写真がいま人気なのだろう」「どうしてわたしはこれを撮りたいのだろう」と考えることは、きっと楽しくて素敵なことで、もっともっと写真を好きになるきっかけとなり得ることは間違いありません。
P.S. 「わたしはどうして、クリームソーダを撮りたいと思っているのだろう。」という思考に至った要因のひとつとして、間違いなく、富士フイルムのカメラを使用したことを挙げることができます。“クラシックなデザイン”と謳われていることはもちろん、“フィルムシミュレーション”という名の機能を搭載した富士フイルムのカメラに、人はどうしてこんなにも惹きつけられるのか。理由はさまざまで、何かひとつに言いきることはできないはずですが、“懐かしさ”をベースとして心理学的な側面から考えると、それら理由のひとつを、垣間見ることができたような気がします。