家族と自分の“思い”が世界に生き続けるように AKIPIN vol.1〜夏の食卓〜

はじめまして。AKIPIN(@akipinnote)と申します。教育機関に勤めながら、結婚15年になる妻と5歳の娘と暮らしている、ごく普通の39歳の男です。
僕の写真に写っているのはほぼすべて僕の家の中です。特に広いわけでもない家の中の、半径3メートルくらいの範囲をきょろきょろ観察しながら撮った写真ばかりです。
家の中で写真を撮ることについて、僕が普段どんなことを考えながら楽しんでいるのかを、全3回のコラムで、季節の写真とともにご紹介できればと思います。
第1回目は、夏の写真とともに、僕が家の中で写真を撮ること全般について思っていることを書かせてください。
写真は家の中でも、絶景スポットでも、いつもの町でも、学校でも、どこで撮っても楽しめるものですが、それらの中で家の中だけが持つ、ある特徴があると思っています。
それは、家が“自分や家族のしたことだけが反映されている場所であること”です。
いま僕は、この文章を普段ごはんを食べているテーブルで書いていますが、そこのカーテンレールには100均で買った物干しに僕のボーダー靴下が干してあって、(どんだけボーダー靴下好きやねん!)と自分でも思いますし、その向こうのベランダには、通販で注文したウルトラジャンボサイズの物干しが重苦しそうに揺れていて、それを見ると「今どきのサイズ名にウルトラジャンボって!」と笑っていた妻の声を思い出します。
床には娘が描いた家族3人の絵が落ちていて、その絵を見ると、(女性陣2人はかわいく描いてあるのに、
なんで僕の顔だけ青くてホームベースみたいな形をしてるんやー!)とか笑っていたやつだなぁと思い出すし、台所にはいつの間に並べたのか知らないけれど、フタ付きの空き瓶が並んでいて、その光景からは(ジャムを作って入れよう)という妻の思いが見えます。
このように、家の中は自分や家族のしたことだけが反映されている場所で、何を見ても、それについての自分や家族の“思い”を思い浮かべることができ、知らなくてもリアルに想像してみることができます。
自分を含めた大事な家族が、そこで生きながら抱いている素朴な“思い”。そんな何の変哲もない“思い”たちは、美しくておもしろいと思います。
でも、そんな“思い”自体を物体にして保存したり、引き出しにしまっておくことはできません。
日記に書き残すというのは一つの有力な保存方法です。自分が抱いた思いを自分で文字にして記録する、日記というものが僕は好きです。
ただ、日記は時間が一定経ったあとに書くもので、当たり前ですが、覚えていない思いは当然、書き残せません。
ジャムの瓶から僕が感じた、妻の心にあるジャム作りの楽しさ、パンに塗ってもっとおいしく家族に食べてもらおうと思っているわくわく感、それを見た僕が抱いた妻への感心、そしていとおしさ。
あとから文章を書くにあたってはこうして、“楽しさ・ わくわく感・感心・いとおしさ”という言葉をあてていますが、それらのハッキリした言葉では、あの瞬間に抱いた”思い”を表しきれていないと感じます。もっとあいまいで、ふぁっとしたものだったと思うのです。
そこで、”あの感じ”としか言えないような瞬間的な思いをとっさに残せるのが、写真なのだと思います。
写真を眺めるたびに、その風景から、妻、娘、そしてシャッターを押した僕の“思い”が再生される。
そんなふうにして、家族と自分の“思い”が世界に生き続けることができる。
これは、家の中で撮った写真ならではだと思っています。
あなたやあなたの家族の“思い”で満たされたあなたの家の中は、あなたの家にいる人や来た人にしか撮ることができません。
ぜひ、家の中をきょろきょろ観察してみて、“思い”を感じた写真を撮りましょう。
次回のテーマは、僕が特に好きで撮っている妻のごはんの写真についてです。
よろしければ、またご覧いただけるとうれしいです。
今回登場したレンズ


