今ここにいる自分だけの感動とせつなさを写す AKIPIN vol.3〜冬の食卓〜
こんにちは。AKIPIN(@akipinnote)です。教育機関に勤めながら、結婚15年になる妻と5歳の娘と暮らしている、39歳の男です。
妻のごはんと、それを作っている妻の姿を撮ることが特に好きです。
全3回のこの連載が最終回を迎えるにあたり、富士フイルムから11月に新発売された『X-S10』をお借りする機会をいただきました。
このカメラが朝に届いて、昼、夕方と過ごしたときにはもう、少女漫画の少女のように、「好き……」ってなりました。
僕がX-S10で撮影した、PCやスマホ等で補正していない写真とともに、その魅力をご紹介します。
まず、これまで使ったことがなかったフィルムシミュレーション クラシックネガ。
その色味はまさに、かつて一般家庭で普通に使っていたあのフィルム調で、何枚撮っても追加費用なしのフィルムカメラを手にした気持ちです。何枚でも撮って眺めたくなる。
そして、大きなグリップとシャッター音がとにかく心地いい。
触れてたい、何度でも聴いてたい感覚になるのです。
さらにこのカメラ、驚くほど狙ったとおりに撮れています。
ボディ内手ブレ補正と超高速オートフォーカスの効果か、いつもよりブレずに写っていました。これなら、撮った画像をそう頻繁に確認しなくても大丈夫!と思えました。
極めつけは、何気なく動画撮影ボタンを押すと簡単に映画のような映像が撮れてしまったことです。「動画もやってみたいな……」という意欲が湧かざるをえません。
眺めていたい。触れてたい。声が好き。一緒にいて安心できる。新しいジブンを見つけられそう。
若干僕の都合のいいように言い換えていますが、これだけ条件が揃ったらそりゃやっぱり、「好き………」ってなりますよね。
返却日のお別れはどれほど辛かったことか。
また、会うと思いますけどね。
最終回の今回は、“写真を見る” “写真を残す”ということについて、僕が思うことを書き残させてください。
僕は二十歳くらいからフィルムカメラをぶら下げていましたが、それはほとんどファッション目的でした。露出もF値も知らず、現像と焼き増しは同じことだと思い、プリント店から受け取った写真も袋にそのまま眠らせていました。
インスタグラムに写真を投稿し始めたのは、5年前に娘が生まれたことがきっかけ。“写真がうまくなれたら”という軽い気持ちでした。
それまで僕はシンプルなブログをやっていましたが、自分の感覚を人に向けて表現する限界を感じ始めていました。でも写真なら、言葉を書かなくてもパッと撮ってピャッと投稿するだけで、いいね!なんて反応がある。
そのへんを歩くおじさんの背中を撮って、『#instagram』という漠然としたハッシュタグを付けて投稿したら、5秒後に謎のアメリカ人から「Awesome!!」とコメントが付く。(うーわ、アメリカ人めっちゃびっくりしてるやん。僕の写真が5秒でアメリカを感動させてるやん)と驚きました。
そして僕は、(写真って楽やな)などと思い、難しく考えたりするのを休憩する意味も兼ねて、気軽にインスタグラムを続けていきました。
今にして思えば、「Awesome!!」は、特定のハッシュタグに対して自動的に付くよう仕込まれたスパムコメントだったに違いないのですが。
そのように写真を“手軽なもの”ととらえ、いろいろな景色などを撮って投稿し始めたのですが、それは“人に見てもらう”だけでなく、今まであまりなかった“自分の写真をじっくり見る”ということでもありました。
そして、自分の写真を日々見ているうちに、家の中の写真からは、休憩していた考えが勝手に動き出すような感動が湧き上がってきたのです。
鍋から湯気が上がる写真を見ていたときのこと。
ふと、(これは湯気が立ちのぼる写真であり、消えていっている写真でもあるんやな)と思いました。どちらか一方だけじゃない。一瞬の中に両方が同時にある。時間は常に進んでいる。
そして、(生きているってことは、終わっていくってことなんや)という実感が、胸の底からせり上がってきたのです。その実感は、“諦め”であると同時に“生きる歓び”でした。
険しい道を通って、これまでにないアングルから、誰も見たことのない景色を写真に撮ることはものすごいことです。
でも考えてみれば、僕やあなたや誰にとっても、今ここから見えている景色と同じものは、今ここにいる自分にしか見ることはできない。
同じ場所に居合わせた人同士でも、立ち位置が違えば見えてる景色は違うし、もし立ち位置が同じでも、時間が違えば景色はやっぱり違う。
つまり、世界でそれを自分しか見ることができない場所や角度や時間に、みんないつも立っている。
生きている間じゅう、“今ここから見えている景色”は、世界で自分にしか写真に撮れないと思うのです。
ましてや、今、そこでサンタさんへの手紙を加筆修正している5歳の娘の背中や、そこの台所で「今夜はおでんだでよ」と、僕の食欲をそそるべく、謎のおばあさん風に告知してきた妻の顔なんて、宇宙で今ここにいる僕にしか。
日常生活の中で不意に、自分や家族が今ここにいるということへの感動とせつなさでいっぱいになる瞬間があります。
なんとかしてそれを自分に染み込ませたい。残したい。ただぼんやり見ているだけじゃ苦しい。
すごすごとカメラを持ってきて、パシャパシャと響かせ、写真をデータにするのは、その苦しさを一時的にしのいでるだけかなと思うときもあります。
でも……写真ってやっぱり、”一時しのぎ”にとどまらないなと思うんです。
今そこの棚には、娘が幼稚園の運動会の徒競走で2位でゴールする瞬間の、口を開けて手を前に伸ばしている写真が置いてあります。
同時に走るのが3人という中での2位なのですが、娘は去年3位だったことがとにかく悔しくて、「いちいになりたい!」と、一生懸命走る練習をしていました。娘が他の子より明らかに遅めなのを知っている僕が(1位、かぁ……)と思い淀んでしまったことなどつゆ知らず、娘は一生懸命練習をしていました。
そして今年。幼稚園生活最後の運動会。先頭の子がダントツでテープを切った事実を突き付けられたまま、2位を穫るため必死で走った。たぶん何か声を上げながら、必死に手を伸ばし、真横を走る子よりわずかに早く、ゴールラインを越えることができたのでした。
この写真に残った瞬間は、少なくとも僕にとって、娘の幼稚園生活におけるハイライトの一つになりました。
“今”とは。
“瞬間”とは。
それはたぶん、時間をとことん分けたときの”最小”のものです。
と同時に、それがあるだけで幸せだと言える“今”や、たどり着くゴールとしての“瞬間”は、”最大”のものだと言えると思うのです。
最小であり最大でもある“今”や“瞬間”を、1枚の写真に残すこと。
たったの1。同時に、100%の意味でもある1。
写真1枚に写るものって、無限に広いのかもしれません。
とまあ、全3回にわたって長々と書いてきましたが、そんなことをあれこれ考えなきゃならない必要もなくて。
好きなカメラで好きなように、パッと撮ってピャッと投稿したりして、
これからも写真、楽しんでいきましょう。