いつか見た風景 〜平井裕士 vol.3〜

前回のコラムで「春、あたたかくなった頃に、新しいじぶん探しをしてみよう。」と書きました。未知の世界を開拓したいと思えるのも、草花が生き生きとしている春だからでしょう。これまでに『X100V』で撮影してきた写真を見ていると、自転車、植木鉢、壁、自転車、自転車と、同じような写真がたくさん現れます。よく飽きずに撮り続けられるなと思います。同じカメラで似たような幅の路地を好んで歩いているから、写真がパターン化されてしまうのです。だけど、地域によって路地には特長があって、それらを見つける面白みもあるから止められません。
過去に「もっといろんなものを撮ってみたら良いかもしれませんよ?」と言ってしまったことがあるような気がして、今非常に申し訳ない気持ちになっています。その言葉をそのまま自分に言ってやりました。そうすると「撮りたいものを撮るのが写真だよね?」なんて、脳内で写真論争が始まってしまったから、それなら写真で語り合いませんか?ということで最終回のコラム始まります。
ボクがお世話になっている写真ギャラリーのオーナーが10年前に「似たような写真なんか気にせず、シャッターを切ればいいんです」と教えてくれました。以来、教えを守れないことは多々ありました。だけど、撮っていればいつかその写真の魅力に気づくときが訪れるかもしれないと思い、不本意でもシャッターを切り続けてきました。ほとんどの写真はハードディスクの中で眠り続けています。あるとき、写真展用のセレクトをしながら久しぶりに見てみると、空いていたピースを埋めてくれる写真を見つけられたことがありました。撮影したときは、何か引っ掛かるものがあっても、それが何なのか具体的に分からない。時間が経ち、写真に隠れていた“好き”に気付くことができたのです。この感覚、本や音楽と同じですね。
“好き”を表現しようとするとき、万人に理解されやすいものはハードルが低く、街で見かけた自転車にトキメクといったような感覚は胸の奥にしまったままにすることが多いかもしれません。身近では共感してもらえない“好き”だとしても、世界中のどこかにきっと分かり合える人がいます。だけど、SNSやギャラリーで探しても、見つかりそうで見つからない。そうしてずっとひとりで撮り続けていると、ひとりで撮ることに慣れてしまいます。時間に縛られることなく行きたい方向へ進み続けられる。こんなに自由で良いんだろうか不安に思ってしまうくらいに。
でもどうしてだろう。“好き”を求めて自由に歩き周り撮っているのに、気持ちの奥にある満たされないもの。最初は、それを気にしないようにしていました。散歩終わりに、ひとりで向かった喫茶店で紅茶が出てくるまでの間、背面液晶で撮った写真を確認しながら、「これ良かったな」とか、「今日は何も撮れなかったな」と心の中で呟く。もし隣に共感してくれる人がいたら、どんな言葉を返してくれるだろう?
『X100V』と散歩するようになってもうすぐ5年。街を歩いたあとに寄る喫茶店は今でもひとりがほとんどです。紅茶の隣にホットケーキは並ぶようになったけれど。さらに、年に1回あるかないかだけど、写真が好きな友人たちと、写真を撮ったり、写真の話をしたり、喫茶店やおでん屋さんに行くようになりました。ちなみにその場合、撮った写真を喫茶店で順番に振り返った経験は一度もありません笑。そんな機会に“好き”の勢いが余って、雑草をテーマにした写真集を皆でつくるようになったこともあります。だから、“好き”は本当に大事にしてくださいね。
最後にコラム連載のテーマとしていた「どうして写真を撮るのだろう」について、今のボクの答えは見つけられただろうか? “好き”という気持ちがポイントなような気はするけど、正直良く分からないし、分かる気がしません。撮らなくても死なない。最近読み返した本に、こんな言葉がありました。「悩みは他者との関係から生まれ、喜びもまた他者との関係から生まれる」。写真もまさにそうだと感じます。写真を撮ることに悩み、写真を撮ることから喜びを感じる。ボクにとって写真は、他者との関係から生まれるものであり、社会とつながるための手段なのだと思います。こうしてこのコラムを書けているのも写真を撮ってきたからこそ。この文章がきっかけとなって“好き”を共有できる誰かと繋がれることを願い、これからもボクは好きな風景を撮り続けます。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。みなさまも素敵な日常をお過ごしください。
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