いつか見た風景 〜平井裕士 vol.2〜

「Peacefulな写真ですね」
初めてのオンライン英会話で自己紹介の練習をしたときの先生の言葉。ボクが好きな写真家の名前を伝えると、どんな写真を撮るのかを調べ感想を教えてくれたのだ。なんてやさしいんだ。相手が好きなものに興味をもつ姿勢を英語より先に教えてもらった。ボクは興味があるものは追及するけど、そうでないものはあまり積極的に知ろうとしない。この一言により興味のないものを、もっと知りたい、撮ってみたいと思えた。ボクが撮らない写真を撮る人に会ってみるのもおもしろいかもしれない。春、あたたかくなった頃に、新しいじぶん探しをしてみよう。
今回のコラムでは、これまで『X100V』で撮ってきた写真の中から、Peacefulだと思う写真を紹介しながら、どうして写真を撮ろうと思ったのか振り返りたい。
Peacefulがもつ言葉のイメージの差は小さいように思う。ボクは、なにか特別な瞬間ではなくて、ずっとそこにそのまま在るような風景を思い浮かべる。たとえば、外出したときに、周りの風景を意識しながら歩いている人はどれくらいいるのだろう? 少なくともボクの家族が、朝日に照らされているガスメーターを見て「綺麗だ」と言ったことはない。たまにボクの心の声が漏れてしまったときには、「そうだね」と言ってくれたことはあるけれど。
通勤電車の車窓から、いい感じに光が当たっている場所を見つけると良い1日になりそうだなと思う。このまま会社を休んで、シャッターを切りに行こうかと悩むようなこともあった。だけど、ボクが撮る写真は、運命というか、たまたまボクの前に姿を現してくれた存在と向き合うことを大切にしている。その思いが明確になってからは、遠くに見える存在をわざわざ迎えに行くことは心身ともに疲れるからなくなった。近づくと第一印象が霞んでしまうことも多い。また、写真を撮ることに執着しすぎて、撮れないことがストレスになるのなら写真から離れてみて欲しい。過去のボクがそうだったから。
写真から離れると自分自身がどれだけ写真と繋がって生きてきたかが見えてきた。ボクには、写真の無い生活ができなかった。カメラと一緒に街を歩いて、ボクたちのことを待ってくれていたかのような風景に出会う瞬間の喜びを知ってしまうと、ずっと撮り続ける未来しか思い描けなかった。『X100V』のファインダーで世界を切り取り続けたい。今後、富士フイルムからさらに魅力的なカメラが登場したときは、どちらのカメラを連れて行くか悩みそうだけど、そういう嬉しい悩みなら大歓迎だ。
最近は棺桶に一緒に入れるなら、どんな写真が良いか考えるようになった。また、いつか訪れる人類滅亡のときに、最期を受け入れた人たちが互いに好きな写真を持ち寄り、空に映し出しながら思い出を振り返る光景を想像することがある。ボクならどんな写真を選ぶだろう。家族や友人の写真なのか、街を写した写真なのか。どんな写真が投影されたとしても、1枚1枚の写真から物語を創り出せそうな気がする。
生涯を懸けて撮りたい写真。もしかしたらすでに撮り終えているのかもしれないし、撮れないかもしれない。「こんな風景が撮りたい!」とボクが想像できてしまうような写真が撮れたとしても、満足感以上の驚きとか、感動は得られない。想像できないような風景に出会い、トキメキたいから、街を歩きながら写真を撮りたいと思うのかもしれない。
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